タモリ推奨の松山の歴史・地形・観光ルートまとめ (ブラタモリ #29)

NHK番組のブラタモリ松山編で、タモリさん推奨の松山の歴史・地形を踏まえた観光ルートが紹介されました。この記事では、ブラタモリ松山編のルートを、アクセスなどの情報とともに紹介します。

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松山市とは

松山市は四国最大の都市。しかし、松山城ができる前は、広大な湿地帯に過ぎなかったのです。わずか400年でどのように四国最大、人口約50万人のまちになったのでしょうか?

松山城を中心とした松山市はどのように四国一の町に?

ブラタモリは、松山城からスタート。松山城は山上にあるため、ロープウェイかリフトで登ります。江戸時代の天守閣が残存する、貴重な城です。加藤嘉明が築城しました。

ブラタモリは、松山城の北東すぐにある東雲公園を訪ねます。道路と住宅のあいだに、2mほどの高低差があるようです。道路の線形は、古地図にある土塁の線形と一致。公園は、堀を埋めた跡だったのです。

ブラタモリは、松山城の東にある松山東高校を訪ねます(一般非公開)。かつての松山中学時代には、正岡子規が明治16年まで在籍。明治28年には夏目漱石が教諭として着任した歴史を持ちます。

江戸期にこっけいの遊びに転じていた俳諧を、自然や人物を日常のことばで描写(写生)する俳句として再生させました。

  • 柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺(正岡子規)
  • 赤とんぼ 筑波に雲も なかりけり(正岡子規)

松山東高校には、松山城を大きく囲む土塁である、砂土手の痕跡が残っています。随所に見られる土塁の痕跡は、扇状地にある松山城周辺を、洪水から守るために作られていたのです。

松山が城下町がとして発展した理由のひとつは、大敵であった洪水を克服できたことです。松山城の東を流れる石手川も深い関係があります。

ブラタモリは、松山城の東を流れる石手川を訪ねます。石手川には、渓谷のように見える場所があり、小さな滝もあります。これは、洪水の克服とどのように関係しているのでしょうか?

石手川の岩堰は、200mに渡り川底の岩盤を人力で削り、川の流れを変更した痕跡です。この工事により、松山城付近に流れ込んでいた水流を、南に逃がしたとされています。付近では、工事に使われたノミが、出土しています。

松山市駅付近

ブラタモリは、伊予鉄道の松山市駅を訪ねます。JRの松山駅の東にあり、市駅の通称で親しまれています。松山城の南に位置し、現在は銀天街をはじめ商業の中心地ですが、江戸期には伊予絣(かすり)などを扱う問屋街でした。

銀天街の入口にある伊予銀行湊町支店はじめ、至る所に内陸部にも関わらず、湊町の文字が見えます。これは、松山城南の武家屋敷を商圏とし、水運による荷揚げを行っていた痕跡となります。銀天街の南側に沿う中の川は、江戸時代と川幅が変わっていません。両岸から引っ張る形で、荷物を運ぶ小舟を通していました。

港町三津(三津浜港)

ブラタモリは、松山の港町である三津へ向かいます。伊予鉄道の港山駅から三津浜港へ向かうには、渡し舟を利用する必要があります。これは、市道の一部のため、無料で乗船できます。

鯛めし「鯛屋」

三津浜港周辺には江戸時代から残る民家があります。森直樹さん宅もその一つで、一般公開を兼ねて鯛メシ専門鯛屋を営んでいます。

鯛メシ鯛屋

鯛メシ専門鯛屋の庭には、籠置石が残っています。これは殿様が来訪した際に、籠を置く石で、由緒正しい家であることを示します。殿様は庶民と句会を開くような、親しみやすい存在だったと伝えられます。

鯛メシ専門鯛屋には、三津~大阪(天保山)の海図も保存されています。これは参勤交代のルートと考えられ、庶民が、敬愛する殿様の現在地を確認していたのかしれません。

三津浜港周辺には、奥行きの非常に深い家がいくつかあります。町屋として建てられた建物です。ブラタモリが紹介したのは、遠藤味噌醤油醸造所です。

ブラタモリは、三津浜小学校内を訪ねます(一般非公開)。校内には、お茶屋井戸の石碑があります。非常に広いこの小学校は、江戸時代のお茶屋の跡をそのまま利用しています。

線路の直交

ブラタモリは、大手町駅を訪ねます。松山城西側の大手町駅付近には、全国的にも珍しい線路の直交があります。鉢合わせになった場合、郊外電車が優先と定められています。

本州からだとなかなか行く機会の少ない場所ではありますが、魅力がたくさんある松山をぜひ一度訪れてみたいですね。

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